王土会会報 第18号 (13.4.1)
目次

1、ご挨拶 王土会代表理事 高木譲次
2、インターネット
3、会員の声
4、会員の近況
5、新入会員
6、訃報  遺族からのご挨拶
7、事務局から
8、最近の装備品の紹介H

 ◎ ご 挨 拶
       王土会代表理事  高木 謙 次
 全国の王土会会員の皆様明けましておめでとうございます。
 新世紀の新春をお元気でお迎えの事を心からお喜び申し上げます。
(と申し上げてましても、このご挨拶が皆様に届くのは櫻前線の北上が報じられる陽春の候かと存じますがご容赦下さい)
 景気回復、経済構造改革、年金や医療などの社会保障の調整、有事法制や集団的自衛権問題の前進など重要な課題が多く、またこれらの改革の基本には教育改革があるなどといわれる中で迎えた我が国の21世紀のスタートですが、ともかく新世紀を迎えました。
 20世紀を送り21世紀を迎えるに当たって、皆様もさまざまな思いを持たれたことでしよう。私ももろもろの事が頭をよぎりました。喜び、悲しみ、成果も上げたが、失ったものも多い。そのもろもろにノスタルジアを感じます。この世紀に生きたことへの思い、いとしさがそうさせるのでしようか。
 この100年は人類がかって経験したことの無い「激動の世紀」だつた。「戦争の世紀」科学の世紀」「イデオロギーの世紀」「アメリカの世紀」――いろいろなくくり方があろうかと思いますが、やはり忘れられないのは「戦争の世紀」ということでしよう。
 戦後すでに55年。勿論、平和が永いことは大変喜ばしいが、それだけに戦争や戦前の記憶は風化している。「20世紀の回顧」などと大層に構える積もりはないが、昔の日本人の姿と戦後の変容などは、もっと語り継いだ方が良い。戦後の日本はひたすら復興に努め、世界屈指の経済大国となり、平和を謳歌してきた。様々な恩恵、利便は手に入れたが、エコノミックアニマルなどともいわれたりもした。自由と権利は主張するが、秩序と義務は薄れた。欲望は肥大し、忍耐はやせた。
 日本の社会、文化、人の心のあり方や家族の姿は変容した。ここ数年「あってはならない事』が続発した。タガがゆるんだような現象があちこちで露わになったのは何故だろうか。経済の低迷も久しい。新世紀のあゆみを確実にするためにも、20世紀を時に振り返り、忘れないこと、忘れてはいけないことを新しい世紀に語り継いでいくことが大事なことではないだろうか。
 先日たまたまテレビを見ていると、20世紀で達成できたこと、出来なかったことを識者へ聴いた結果が放映ぎれていた。達成されたこととして企画大量生産、物質的充足、物の充足、平和と繁栄、等々。達成できなかったこととして、知性の創造、見直し検討、心の豊かさ、安全(危機)管理などが挙げられていた。新世紀ではこれらの20世紀に達成できなかった事を達成する努力が必要だとの主張でしよう。
 ここで私は100年前の大晦日東京三田の慶應義塾で福沢論吉を囲む「世紀送別会」で「階級制度の弊害」など19世紀の悪弊を描いた絵を焼き捨てて、新世紀を迎えたと伝えられることを思いだした。いかにも当時の人の意気軒昂な様子がうかがえる話しだが、今日も不要なものは捨てる勇気と決断は必要ということだろう。
 新世紀には「IT(情報技術)の世紀」、「バイオ(生命科学)の世紀」などの様相がほのかに見える。限りない人知の前進に期待するが、科学と便利に振り回された過去を思い、入間の心を見失わないようにと祈らずにはいられない。
 我が国の政治に関しては、18年間に総理大臣が11名も就任する事を繰り返すのではなく、政治が責任を持ってこの国のあり方を明確にし、確たる国家戦略のもとに、国民も各分野で希望を持って努力する。国際的にも尊敬と信頼をもたれる国となる。そんな努力が出来る新世紀でありたいと願い、ついとりとめの無いことに想いをはせた次第です。
 さて、今年も会員皆様のご支援ご協力を頂いて、理事一同、会の目的達成に努める所存ですので宜敷お願い申しあげます。
 総会でお元気な皆様にお会いし、歓談できることを楽しみに目下準備を進めています。
 是非ご出席下さいますようお願いいたしましてご挨拶と致します。


  ◎ インターネット
 前号から久光理事の紀行文『遥かなるモスクワへの道』を連載しておりますが、さすが北京〜モスクワ間7千8百キロ列車の旅だけあって、引き続き送っていただいた原稿が10数枚、一挙に掲載するには紙面を占める割合が多すぎるし、さりとて更に2回に分けるには間延びしてしまい興味も薄らぐのではと危倶し、いっそのこと前号の分も含めて一度に皆様の手元にお送りしようと思い、会報の別冊として編集することに致しました。
 初めてお読みになる方、或いは前号は読んだが前世紀のこととて忘れてしまったとおっしやる方にも再度思いだしていただくために最初から編集してありますので、この会報をお読みになった後、時間のあります時にどうぞごゆっくり楽しんで頂ければ幸いです。
          (編集担当 馬 渡)
    久光理事の紀行文『遥かなるモスクワへの道』はここをクリックして下さい

  ◎ 会 員 の 声
 ☆ 徒然思うこと
       埼玉県上福岡市 石川 皎
 私たちの若い時代には婦人会に2つの組織があって、それぞれ大きな字で「愛国婦人会」「国防婦人会」と書いた白い襷を掛けた小母さんや娘さんが街に溢れていました。
 従って「愛国」と「国防」という言葉は誰の目にもとまり、心に沈殿しておりました。戦後の教育ではあまり人々の口にのぼらなくなっ
たこの2つの言葉は、私たちの世代の者としては国の基本であり、また個人にとっても自由に、平等に生きていける基本であると思っております。自衛隊で一生を終わったわたしの人生を振り返ると、戦禍で焼け野が原となった日本の復興の時代に、米軍の翻訳教範から脱却して、自衛隊の教範を作ろうという機運が生じ、武器科の基本となる「武器科操典」の編纂が企てられました。
 わたしは幸いにも編纂の一メンバーに加えさせていただき、知識・経験の豊かな各職種の多くの先輩のご指導を受けることが出来ました。
 いま、21世紀の転換点に立って、「IT」(情報技術)を軸として、世の中が大きく変わろうとしているとき、「愛国」「国防」と言う基本概念が世論の中に正しく甦ることを念じつつ、80歳の坂を越えたこの老兵は消えていきます。

       東京都杉並区 近藤清秀
 昨年8月、金沢市石川護国神社境内に建立された大東亜聖戦大碑完成式典に参列しました。
 とかく侵略戦争といわれている大東亜戦争を、白色人種の植民地主義からアジアを開放した「聖戦」と宣言するもので、高さ12bの立派な石碑です。総工費1億円、戦友会、遺族会等約4百の団体、2千3百人の個人寄付金によるものだそうで、私も一灯を献じました。
 高額寄付者の名簿が碑に刻してありますが、台湾、朝鮮の方々の多くの名前が目に付きました。大東亜戦争は、日露戦争に勝利し、大陸に権益を得た日本を敵視しだした米国覇権主義路線の終着駅であり、近衛、東條首相でなくて、誰が日本の首相であったとしても、何れ戦争に追い込まれる運命にあったと私は思います。戦争は悲惨なものです。しかし帝国主義に対し戦争を回避するということは、
降伏ということです。その日から国家は主権を失うことを意味します。
 べトナムは米国との戦争を回避しなかった為に今日があるのです。
 結果が分かっている今日、過去の日本を誹謗することは容易です。しかし、過ちは米国にも、中国にもあったのです。東京裁判におけるインドのパール判事の無罪判決を噛み締めながら大碑の「聖戦」を見上げたことでした。

         土浦市 篠原輝夫
 近頃、残念なことに上は頭の物忘れから、下は足腰の劣化まで人間のあらゆる基本的な機能の順調確実な老化をつくづく感じております。
 生来、薬嫌い、医者嫌い、検査嫌い(嫌いの3点セット)で通ってきた愚かな悪癖は如何ともし難く、周りを困らせてきましたが、本音を云えば、小心翼々として身体を気遣いながら毎日を過ごしてきただけと云うことです。
 これと云うのも薬の副作用や薬漬けの怖さ、特に最近見聞きする誤診、或いは処置ミスと必然的にそれに付随して起こるお偉い先生方のお詫び騒ぎに恐れをなして、医に対し萎縮しているせいでもあり、今もって自分の自然治癒力を唯一神頼みにしているからでもあります。 しかし、反面この嫌いの3点セットには多少のメリットがあり、幾らか体の不調な時、稀にのむ売薬や投薬の効き目は大きく、腰痛の貼り膏薬などは1・2夜もすればてき面に痛みが取れます。
 かくて吾が老人保健証の活躍の場は減り、ひいては国の膨大な医療費赤字の節減にいささかなりとも貢献しながら、老化街道を整々粛々と進んでいると言う次第です。

       北海道恵庭市 関口寿恵吉
 私は今年8月満80歳を迎え、これを機に妻と長男の3人で家族旅行をと思い立ち、9月15日から約1週間の予定で本州方面に出向いた次第です。
 旅先で特に印象に残ったことは東北岩手の宮古(浄土が浜、宿泊地の休暇村陸中宮古)、南紀の鳥羽、白浜海岸、四国の高知桂浜、道後温泉のからくり時計、KKR施設しまなみ街道(亀老山展望台)等でした。
 今回旅したのは、本州の一部でしたが、まだまだ北海道を含む国内の見どころは数え切れないほどあると思います。
 定年早々から旅を心がけていればと、今更ながら痛感しております。

         横浜市泉区 田代 泰
 武器科自衛官として21年、防衛庁技官として9年、防衛庁教官として5年勤務し、防大を最後に、満65歳で定年退官しました。
 退官後、技本の技術顧問を4年、また新たに設立された弾道学研究会(会員数約5百名)の会長職を5年間務め、引退しました。
 現在78歳、残り少ない人生となりましたが、顧みれば、防衛庁一筋に勤務し、敗戦により完全に失われた軍の骨幹技術、即ち弾道学及び火器弾道技術の復活、再建を目指してひたすら走り続けた人生でした。

      東京都八王子市 森 清勇
  目覚める長安?
 江沢民が大上段から振り下ろした青竜刀を一旦納めさせ、友好と協力のソフト・ムードに転化させるべくやってきたのが朱要鎔基です。
 一党独裁でありながら、外に対しては硬軟両様の対応をする、処世に長けた国です。日本敵視してばかりいては、日本から経済支援が危うくなることに気付いたのです。
 また、東海岸部と内陸部に生じた開発格差を早急に解消する必要性に迫られています。それが西部大開発で西安(昔の長安)がハイテクセンターであり、成否の鍵を握っています。云うまでもなく日本の技術にも期待しているのです。
 かの地は千4百年の昔、随唐として繁栄を極め、日本は文化移入のため遣隋使や遣唐使を送ったのです。4隻6百人を、20年に1回派遣するので、この間文物を学び写経しては大任を果たそうとしました。
 しかし、渡海は自然任せで、半数は命を亡くしたり、帰国できない運命にありました。阿倍仲麻呂のように唐の宮廷人となり、玄宗皇帝に仕えた人もいます。
  山河 千里の国 城開九重の門
  皇居の壮なるを見ずんば
  安んぞ天子の尊さを知らんや
 当時の長安は百万都市でシルクロードで運ばれてくる文物で賑わっていました。世界の中心が長安であり、10キロ四方にに及ぶ皇城があり、天使が玉座にあったのです。
 そうした中で、夜遅くまでペルシャ娘の踊りを見ては酒を飲んで過ごした李白です。急に呼び出されて、酔眼朦朧として玄宗の前に立っこともあったようです。
  五陵の年少 金市の東
  銀鞍白馬  春風を渡る
  落花踏み尽くて 何処にか遊ぶ
  笑って入る  胡姫の酒肆の中に
 若い官僚の颯爽たる様を謳っていますが、半分は憧れで、半分は自分の投影です。しかし、栄枯盛衰は世の習い。晩唐になると  長安寂々として 今何かある
       廃市荒街  麦笛秀ず
  昔時の繁栄  皆埋没し
    目を挙ぐれば凄涼 故物なし
 中国は今、自由経済を揚げて世界貿易機構WTO)加盟を目指しています。
 遣随唐使の跡をたどりながら、千年の眠りから覚めようとする西安、その槌音を耳目に感じてきました。安全保障の観点からも、中
国から目を離せなくなっています。
 そのような切り口から眺めてみました。

         和歌山市 森迫春夫
 茫々38年!旧知の方々は或いは亡くなられ、存命の方々の多くが何らかの故障持ちの年齢となられる中、私は日頃の運動お陰で「医者知らず」です。
 警察予備隊発足の最初に警察の方に引率されて防府に入隊、針尾・帯広・苗穂・札幌・島松・土浦・島松・十条・土浦と14年間で9回の転属、それに武校への入校4回、24ヶ月、更に米軍の真駒内・相模原での研修5ヶ月と最後の武校での3年を除いては、慌ただしい生活でしたが、北海道内各地では住民の方々の心の暖かさに心を打たれました。
 私は予備学生の零戦整備専修で実技、理論共に、油にまみれて車に取り組むことには慣れていましたが、米軍での研修を通じて、IE、ORへの志向が強まり、その実践の場を求めて民間企業に転出し、申し訳ないことでした。(製鉄所構内で、その運搬系に専用でないクレーンの間を往復するトラックの最適配車数を求める解法に関し、OR誌に論文を発表したこともあります)
 在職20年、62歳で引退後は株式投資に専念、ボケ防止の目的もあって株価に影響する当日の早朝までの経済因子6項目をインプットする手製の推計モデルを使用しての株価の予測、保有、注目株の月、週、日足チャートの作成等、日曜日を除いて平日は極めて多忙です。株価はこのような経済、市場要因だけではなく、思わぬ政治その他の錯乱因子に影響されて的中精度を低下させます。努力の割には投資成果は芳しくなく残念です。
 噴火、水害、地震と災害多発の2千年よサヨウナラ。新しい世紀へと2つにわたって生存できた幸せを胸に、憩い出と現状を報告させていただきました。
 冗長な駄文、ご退屈さまでした。会員の皆様方、健康第一で楽しくお過ごし下さい。

      埼玉県所沢市 牧野辰之助
 老齢になると益々旧い懐かしい人にもお会いできなくなるのでと、思いながらも、若い頃、柔道で痛めた腰が持病となり、最近は歩くこと、立っていることが苦痛になり、市内だけは動きますが、電車などの乗り物利用の外出は殆ど致しません。唯、まだ口だけは達者ということで昔は10以上も持っていた地域の役職も昨年4月で2つにしました。
 私は、表面は機械技術者と言うことになっておりますが、技術屋は大嫌いで、海軍時代からマネージメント専門で、自衛隊(旧警察予備隊)にも米軍よりマネージメントを習得するために入隊しました。
 自衛隊でもいろいろな方にご指導受けましたがその中でも加藤昌平様には尊い御指導を頂き、今でも続いております。80歳にまで生きるなど全く考えてもおりませんでしたが生きている限りは少しでも世の中のお役に立たねばと勉強させていただいております。
戦後の日本人の魂の抜けた状態を見ますとたまらず、日本人に一番抜けているのは、正しい日本語と正しい歴史観の欠如と思い、いろいろ動き、「新しい歴史教科書を作る会」などにも参画しております。
 また、高次元の勉強も致しておりますが、今の地球上の人間は好くないですね。自我と欲望の上に成り立つ競争社会に生活しているのでしよう。そこに真の平和などあり得ませんね。
 有資源のこの地球を自分たちで潰しているのですからね。これはお釈迦様の云われた宇宙の大法則の一つである因果律から見ても天罰は必ずありますね。天災地変、疾病、核爆発などでしよう。
 皆さんの科学常識から考えられても、地球温暖化の影響はもうすぐ近くに来ています。
そして一番先に訪れるのは食糧不足と思われます。
 現在の飽食時代から想像できにくいと思いますが、確実にやってきます。
 今の日本は食料の90%を輸入でしよう。金はあつても買うものがなくなればだめでしよう。
 今年は米の豊作が報じられたら、小役人どもは青田刈りとか、北鮮に送るとか云っていますね。自給率12%と言うことがわからないのですね。
 余談はさておき、今の日本の国と国民は誰が守るのですか。それは国民の一人一人の自国を守る意識と、組織としては自衛隊ですね。
 誇りと自負を持って任じて欲しいですね。

  ◎ 会員の近況
 ☆ 会員からの便り
        習志野市 石塚 武
会報による諸兄の消息が誠に懐かしく、また楽しく、来し方が憩い起こされます。
 ただ、17号による89名のうち、26計23名の方が、予後を含め不調を訴えておられることは残念なことです。
 かく言う本人も、この2年、胆嚢摘出、交通事故に遭い、世の中の推移をもう少し見守りたいと念ずる身ではありますが危ういものです。 (81歳)

       岡山県長船町 池田敬三
 80歳になりましたが、どうにか元気でやっています。
 お寺の責任役員、老人会長等10年ばかりやっていますが、役場、社会福祉協議会の仕事も多く、毎日忙しくやっています。
 旅行も夫婦で、出来るだけ行くようにしています。最近では鳥取、島根方面に行って来ました。
 終わりに会員皆様のご健康と王土会の隆昌発展をお祈りします。

      東京都世田谷区 榮 啓二郎
 私は昭和26年3月警察予備隊管理補給監部武器隊に入隊し、零から出発した武器業務のソフト・ハード両面から建設に生き甲斐を感じ、無我夢中で取り組んできましたが、その頃の先輩同僚も年々王土会に顔を見せない方が多くなり、寂しい思いをしております。
 私は退官後、色々な大病もし、また、持病を持っていますが、健康と体力・気力を維持することが老後の仕事として努力し、足腰の立っ限り、心の故郷である王土会の例会に出席できることを一つの目標として頑張っております。

      宮城県多賀城市 菅原守一
 武器職種として1武器をスタートし、武処、北処、出身地の東北処で退職、現在に至っています。
 その間、各地でお世話になった方が現在も多数おられ、会報誌上にて元気に過ごされておられるのを拝見しています。
 小生も80歳を過ぎ、年齢に応じた健康管理をいたし、現在も技術関係の非常勤講師として、社会との繋がりを持っています。
 また、母隊と地元隊友会の会合等に出席するのを楽しみにしている日々です。

        北海道千歳市 土屋正造
 王土会の為、日夜のご苦労を感謝しています。細やかな会報有り難うございます。会員各位の近況を懐かしく拝見いたしました。
 早いもので、退官後32年になり、光陰矢の如しとの感、ひとしおです。もうそろそろ自分史をと、資料やワープロを眺めております。
 年と共に身体も老化し、体力気力も落ちてきましたが、この千歳を最終生活地として猫の額ほどの庭で晴耕雨読に励んでおります。
 地域の老人会長も7年、漸くここらでリタイヤをと考えている今日この頃です。

    神奈川県秦野市 畑 誠輝
 1年毎に年齢が上がつっいくのは人間世界で当然のこととしても、勤務中のように胸を張って腰を真っ直ぐにした姿勢を続ける必要がある。これを忘れたため今になって背中を曲げ、腰を曲げ、坂の上で辛くなったのはこれが原因ではないか。通院にたよってもなかなか容易なものではない。
 真っ直ぐに歩いている人を見ると誠に羨ましい。
 怪我の元、死の元となるのではないか。健康の崩れがここから来るように思う。
 若い人は勿論、部隊生活を止めていく人には、特に自分自身で気を付けられることを忘れぬようお願いします。

       東京都板橋区 松永  明
 武処の約2年間のこと、呆け気味のこの年齢になってもよく覚えている。武器の仕事が初めてで、余程緊張していたせいであろう。
 もう25年もたってしまった。
 大変お世話になりました。
 今では建物も名称もすっかり変わって、浦島太郎みたいなもの。変わらないのは当時の人達との繋がり、大切にしているし、有り難いこと。
 糖尿病を患って17年、会合など失礼いたし申し訳ない次第。

       東京都練馬区 松野  博
 会員の近況を拝見して懐かしさでいっばいです。
 10年前、狭心症の発作、5年前に高脂血症以来、医者の指導で夜のお付き合いは自粛しております。
 昭和18年、第0陸軍技術研究所に配属、オートジャイロの研究開発に従事、大垣市所在の神鋼兵器(株)(現神鋼造機(株))に駐在した縁で、昨年の6月2日神鋼造機(株)創立50周年記念行事に招待され、オートジャイロについて記念講演をして参りました。
 現在は中小企業4社の非常勤顧問と向科学技術振興財団の常務理事をボランティアのつもりで務めております。
 齢80を迎え、人生の無常をしみじみ感じつつ、「我憩う故に我あり」の日々を過ごしております。
     鹿児島県大口市 宮竹常完
 会報有り難うございました。いきなり懐かしい方々の近況が目に飛び込み、在隊中の当時の憩い出にふけりました。
 私は昭29年、機甲職種で入隊し、すぐ武校に配属され、昭和37年中方武器に転属。その際、武器に職種変更、漸く武器の仲間入り致しました。その間武校では先輩同僚のご指導ご協力の外、各方面から入校の皆さんに特別のご厚誼を得て、本当に楽しく有意義な人生を過ごすことが出来、感謝の念で一杯です。
 私は旧軍の原隊が豊橋でしたので、例年実施される各種戦友会また、毎年の慰霊祭、供養会には職務の関係で年4〜5回は東上し、出席していましたが、東京まではなお遠く、王土会に出席できなかったことを申し訳なく思っています。
 最後に遥かなる地より王土会の発展、会員各位のご健勝、ご多幸を祈っております。

       岐阜県南濃町 山辺芳夫
 小生、武器科職種ながら、武処、武器部隊の勤務なく、情報系統が長うございました。
 武校教官時代に新設の「幹部技術情報課程」AOC修了者を対象)の開設を命ぜられ、調査学校に入校、POIの作成、教材の収集(赤
羽デポから朝鮮戦争のろ獲兵器等…一部は武校参考館に現存)、昭和30年(第1期生)、翌年(第2期生)と主任教官として実施しま
した(第2期で廃止)。この異色の課程に関係した方は少ないので紹介しました。
 この関係か?FOC(第2期)卒業後、陸幕第2部(情報)に転属を命ぜられ、武器職種として異例の勤務をしたのです。しかし、火器科教官、教務課班長も経ましたので、教壇や入校修業事務を通じて幹部の方々には可成りお目にかかっていたわけでした。
 当年81歳になりましたが、益々懐旧の情頻りです。皆様のご健勝を祈ります。

      長崎県巌原町小川 巌
 はや八十路 感謝の余生逞しく 以和緒
 隊創設以来席をおいた20年、退職後30年か!
 当時からお世話になった同志の皆様、なかんずく幽明異にした皆様の冥福を祈りながら感謝申し上げております。
 尚その間、ご指導、助言を賜りました諸先輩の皆々様には更なるものがあります。
 今後とも何卒宜しくお願いいたします。
 私は今尚益々元気で高齢者の身上相談、体育等の面で尽力いたして居りますので、他事乍ご休心下さい。
 先ずは御礼旁々近況まで。
 皆々様のご健勝ご多幸を祈ります。

 ☆ 新入会員
    「どうか宜しくお願いいたします。」
永田 泰雄(高射校) 新保 誠一(高射校)
竹森 征男(補統本) 宮崎 正弘(補統本)
小丸 辰雄(関処桂〉 小田宮 誠(武 校)
橋本 清明(九 処) 須藤 八束(高射校)
佐藤 俊治(補統本) 江見浩太郎(関東処)
木下 國昭(武 校) 林  徹 (北 処)
佐伯 仁司(補統本) 福村 正亮(武 校)
菅内  透(関東処) 水野 光哉(高射校)
大屋敷 博(高射校)

 ★ 訃    報
    「心からお悔やみ申し上げます。」
 荒井 哲郎(武 処)[11.6.12]
 原  春雄(九 処)[12.1.9]
 池内 喜明(十 条)[12.4.4]
 小山  麓(技 本)[12.7.11]
 岡植  保(武 処)[12.8.5]
 佐々木芳茂(九 処)[12.9.12]
 根村 幹雄(武 校)[12.9.24]
 山口  巌(東 方)[12.10.1]
 島野 文男(武 処)[12.10.14]
 酒井 正男(陸 幕)[13.1.28]

 ★ご遺族からのご挨拶
      (相模原市 池内喜明 妻 正子)
 日毎に秋も探まりまして、そろそろ紅葉の言葉も聞かれるようになりました。
 過日は、王土会ご一同様よりお悔やみのお言葉やご仏前をお送りいただきまして厚く御礼申し上げます。早速仏前に好物のものを供えさせていただきました。
 早いもので、4月4日(編集注記・昨年)夜明けの6時前、痛みもなく安らかに永眠いたしました。
 肺気腫による1年半ほどの自宅療養でしたが、その間、2、3回の入院、訪問着護婦さんの週2回の訪問、週1度の入浴サービスを受け、更には食事のため車椅子でよく外出するなどして楽しく過ごしておりました。
 最後は一寸風邪気味でしたので17日間の入院生活でございましたが……、肺炎もありましたので。
 故郷の松山の墓地に納骨いたしましたので、私も8月に2度、9月に1度松山に参りました。私もいたって元気でございますのでご安
心くださいませ。
 十条台は憩い出多い地でございます。
 王土会の益々のご発展と皆々様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

   (神奈川県藤沢市 小山 麓 妻綾子)
 先般、夫小山 麓、永眠の際にはご丁重なる御弔辞並びに御供物を頂戴し、ご芳情の程、誠に有り難く厚く御礼申し上げます。
 生前に賜りましたご厚誼に対しましても心より感謝申し上げます。
 皆様方のご健勝と貴会のご発展を心より祈念申し上げております。
 略儀ではございますが、書中をもって謹んで御礼申し上げます。

 ◎事務局から
1、陸幕武器化学課から別添の「相田事務官を支える会」募金への協力についての依頼がありましたので、会員の皆様へも送らせていただきました。
 永い間、武器科の職域においてもご活躍いただいた方ですので、ご存じの方も多くおられると思います。
 宜しくご協力の程お願い申しあげます。
2、会報の記事投稿についてのお願い。
 これまで、特に10月発刊の会報に載せる記事を投稿していただくため、毎回4月発刊分の発送時に投稿用葉書を高齢者から順次90
名、若年者から10名の方に送らせていただいておりましたが、これからは10月発刊分に限らず、随時、投稿をしていただくようにする
事に致しました。
 但し、投稿用の葉書は毎回全員の方に送りますと経費の問題が生じてきますので、これまで通り、毎回百名の方に同封いたします。
 また、葉書が同封されていなかった方も、持ち出しになりますが、随時投稿していただいて結構ですので、宜しくご協力の程お願い申しあげます。なお、投稿の際は編集者の手元に確実に届くようにするため、左記宛へ発送をお願いいたします。
〒215−0007
川崎市麻生区向原1−5−6 馬渡義明 方
          王土会会報編集者宛

 ◎王土会データー・ファイルから
 平成9年4月発刊の会報で、会員の年齢構成をグラフにして見ましたが、あれから4年経った今日どのようになっているのか、ちよっと興味のわくところです。早速データーを整理し、プリントアウトしてみました。
 結果は下記のグラフの通りでした。
 但し、この間会員の退会などがありますので、全く同じ条件ではありませんが、新入会員も逐次入会しているにも拘わらず、皆様の健康管理が徹底している結果でしようか、平均年齢で2歳も上がり、顕著な高齢化傾向を示しております。
 さてまた数年後はどうなるでしようか。
 これまであくせく働いた分、老後をゆっくりと楽しむ為にも更に健康管理には充分に留意し、平均年齢を2歳でも、3歳でも上げていこうではありませんか。


 ◎編集後記
 折角新世紀を迎え、心新たにし、希望の持てる未来像を描いてのスタートでしたが、世界的に景気回復の先行きも見えず、更には、果てしない大空での日航のニアミス、広い海原での船の衝突と結果は暗いニュースでの幕開けでした。
 そこで、せめてこの会報だけでもゆっくりと読んでいただき、心和むものにと思い、紀行文を別冊に纏めたり、皆さんの元気な声をお届けしたつもりでしたが、如何でしたでしようか。
 これからも少しでもよりよいものにしていきたいと念じております。皆様の積極的な投稿と忌悼のないご叱責をお願いいたします。
           (編集担当 馬 渡)

最近の装備品の紹介H
87式砲則弾薬車
性能諸元
 乗 員 8人
 全 幅 約3m
 全 長 約7.2m
 全 高 約3m
 全備重量 約23.5t
 登坂能力 tanθ 約60%
 回転半径 信地 

最高速度 約50km/h
行動距離 約300km
エンジン 水冷2サイクル8気筒
          ディーゼル機関
       411m/2300rpm 
積載弾数   50発(203m弾)
武 装  12.7mm重機関銃M2
製 作  日立製作所
備  考
 野戦特科部隊に装備し、203m自走りゅう弾砲に随伴して継続的に弾薬補給を行う。
 重砲牽引用の73式牽引車の車体を利用し、上構部分が弾薬庫となっている。
 弾の揚降は車体部分に設置された揚力約1トンの油圧クレーンを利用して行い、1回で10発を吊り上げることができる。
 昭和62度から調達を開始した。
      
99式弾薬給弾車
性能諸元
 乗   員 2人
 全   幅 3.2m
 全   長 6.7m
 全   高 3.1m
 全備重量 約33t
 旋回能力 超信地旋回可能


速   度 47km/h
エンジン  V型2サイクル水冷過給器付き
         ディーゼル機関
         411m/2300rpm
積載弾数 90発
製   作 日立製作所
備  考
  99式弾薬給弾車は、99式自走155mmりゅう弾砲用の弾薬及び装薬を積載し、自走砲に給弾するために使用するものである。
   平成12年度予算で2両を調達予定。 
         

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