目次
1 ご挨拶 理事代表 朝枝俊勝
2 お祝いの言葉 陸幕武器・化学課長 大須賀 勝
3 王土会の発足 種田 弘治
4 王土会発足30年に当たって 青野 櫻一郎
5 草創期、王土会の回想 北村清一
6 王土会の歩み
7 武器学校見学等(30周年記念行事)について 
王土会会報 第1号 (4.4.1)[創刊号]
  
 
御 挨 拶
            理事代表 朝枝俊勝
 全国の王土会会員の皆さんお元気ですか。一言御挨拶申し上げます。早いもので昭和37年発足のわが王土会は、平成4年で30周年を迎える事と相成りました。
 発足当時、数名に過ぎなかった会員も、今日1300余名を擁する迄に発展し、益々増勢の一途を辿りつつある事は、ご同慶に堪えません。ご承知の様に王土会は、陸上自衛隊武器科幹部等の退職者を中心とした親睦団体ですが、今日の盛況を思うとき厳しく困難な諸状況の中、設立に尽力された諸先輩を初め、これを継承発展せしめた各位に対し、深甚の敬意と謝意を表するものであります。
 毎年総会に御出席の皆さんは十分御承知の事ですが、遠隔地在住の会員各位には今日まで報告の機会がありませんでしたので、若干』王土会の運営や活動状況について触れて見たいと思います。王土会は本部を陸幕武器・化学課に、事務局を武器補給処十条支処におき、「発足当初を除き会長制はとらず、数名の常任理事による合議制により会が運営されております。恒常的な業務の大半は現役の方々の構成による事務局で適時適切に処理されております。
 事務局は、昭和54年の陸幕改編を機に、陸幕武器課から十条支処総務部援護班に移され今日に至っております。王土会の事業は毎年実施する会員名簿の発刊、会員万一の場合の連絡や弔慰等が主たるもので必要に応じ講「話や会報の発行、同好会の開催等をやる事になっております。今後の検討課題として支部の設置、十条支処移駐後の事務局をどうするか、あるいは総会の時期、場所の検討等があります。現在は現役の方々の絶大なご支援を頂きながら役員を
中心に、乏しき人力と財力の下、精一杯努力を傾注して円滑に会務を運営している所です。
 次に、平成4年が王土会発足30周年を迎える事から役員会で協議の結果、記念行事を企画しております。

 1、記念会報の発刊
 2、記念ネクタイピンの作製配布(総会出席者)
 3、武器学校の見学
 4、表彰

 1項については、記念すべき初号なので、会の歴史を残す意味からも意義ある事と思い、会の創設にかゝわる思いでの記事特集としました。幸いにも創設に深く関与された諸先輩が御高齢ながら健在でして、当時の陸幕武器課長でOB会発足の推進者たる種田先生、発足に当って一切の事務を担当され、そして会の運営を軌道に乗せられた当時の陸幕武器課総括副班長の青野先生及び後任の北村先生の御三方に執筆をお願いし、会報に掲載する事と致しました。会員各位に王土会創設の趣旨なり経緯を御承知頂き、更に会に対する理解を深めて下されば幸甚に思います。
 2項の記念品については、テレホンカード等の案もでましたが、永く身につけ御愛用頂くにはネクタイピンが適当との結論で決定しました。デザインは斬新かつ洗練されたものをという事からこの方面で定評のある元武器学校職員の小松画伯に依頼しました。屹度期待にたがわぬ素晴らしいものが出来ると思っております。ただ費用の点から全員配布という訳に行かず総会出席者を対象としております。
 3項の武器学校見学の件ですが、当初総会会場を土浦にという案があり、その検討過程で、総会は例年どおり池袋の東方会館とし、これとは別に希望者に武器学校を見学して貰うという事にしました。時期は気候のよい桜の季節とし桜を賞でながら、かって学んだ懐かしい武器学校の施設や新規装備品等を見学するという計画です。これには武器学校側の全面御協力を仰ぐ訳で御好意に応えるためにも、多数の参加を希望して止みません。
 4項の表彰については、慎重審議の結果、王土会事務局とする事で衆議一決しました。本来ならぱOBの私達で運営すべき事務局を現役の十条支処総務部援護班長殿以下担当者の方々にお世話頂いている現状でして、この方達の献身的御尽力あってこそ、今日の王土会があると云っても過言ではありません。この御苦労に報いるために、2月の総会の席上で表彰する事とした次第です。以上未だ甚だ簡単ですが、王土会の現状と30周年記念行事の概要について申し述べました。激動する国際情勢をふまえ、自衛隊に対する期待は国の内外から澎湃として湧き起こっております。
現役の方々の一層の御活躍を祈念すると共に、私達0Bも気力だけでも負けない様頑張って行こうではありませんか。最後に30周年を迎え、益々王土会の発展と会員各位及び御家族の御多幸と御健勝を祈って擱筆します。
               (元陸幕武器課長。陸幕武器・化学課長)

   お祝いの言葉
            陸幕武器・化学課長
                 一等陸佐 大須賀 勝
 王土会発足30周年をお祝い致しまして一言ご挨拶を申し上げます。本会は、30年前、武器科幹部の退職後の親睦と発展を促進するため発足し、本部を陸幕武器課に設置したいきさつから、私自身王土会の一員として総会の都度お手伝いをさせていただいております。 さて、陸上自衛隊も発足以来41周年を迎えました。又昨年の湾岸戦争勃発以降、日本の国際憎献のあり方について内外で論議されていることは、皆様ご承知のことと思います。最近では、自衛隊の国際緊急援助及びPKO参加問題で自衛隊の存在があらためて見直され、自衛隊も国際的に貢献できる時代が到来しつつある。」といっても過言ではありません。
 一方、我々本来の任務である「防衛カの維持整備」については、ソ連を初めとする東欧諸国の民主化及び米ソ核軍縮等の動きで、デタントムードに一層拍車がかかり厳しい逆風が吹き荒れておりますが、私共としては、この逆風に負けないよう最大限の努力をしてい」るところであります。今後とも武器装備行政」発展のため現職一同力を合わせて難局に立ち」向かって邁進する所存であります。
 王土会の諸先輩におかれましても、今後とも変わらぬ御指導、御支援モ場わりますようお願い申し上げます。又、王土会が武器科出身隊員の「心の寄りどころ」として益々発展されることを祈念し、お祝いの言葉とさせていただきます。

   
王土会の発足
                  種田弘治
 戦後米軍の編成組織にならって自衛隊(当初警察予備隊)に武器部隊が出来戦略単位たる師団の編成部隊として平時から固有の武器隊が出来たこと、更には、、高段階の整備補給を主任務とする武器部隊、或いは補給廠部隊が作られたことは、我が国軍制史上大変素晴らしいことです。旧帝国陸軍に於いては、平素からこの様な部隊の常設はなく、必要に応じて現地修理班といった部隊(主として造兵廠の工長及び工員を主体とし、造兵廠所属の将校を長として所要の方面に派遣し、緊急修理及び補給をする小部隊)を戦地に出して居りました。不肖私も小倉造兵廠の廠員でありましたとき、あのノモハン事変が起き残念ながら当時の戦闘機の主要武器だった固定機関銃(ビッカース7.7耗)に、二重装填の故障が続発したので、これを防止する改良の送弾子部品を携行、50人近い工長工員を引率して、戦線近くの基地に出向いたことがありました。このとき高段階の整備部隊があって、適時適切な支援が出来たら戦況の推移も、又別段の展開を見せたことでしょう。兎にも角にもこの支援組織が出来て、それに有能な幹部配置があった事は誠に結構でした。自衛隊の発足に当って旧陸軍からは主として砲兵、工兵、機甲兵科の人及び特別に兵器技術、行政に携わっていた方々、又旧海軍からは機関科の方、兵科の方、更には旧軍との関係はなかったが技術に堪能だった方々が集ってこられ、加うるに、米軍顧問団に夫々の特色を持った有能で親切な人々が居られ、彼等なりの武器支援に関する業務の手順のみならず、根本にある理念というか、哲学的なこと迄納得の行く様にアドバイスをして下されたことは、誠に幸いでした。 NPRが発足して以来、約4年、自衛隊になってから約5年、武器業務も一応の態勢がととのい、安定した支援が出来るようになりました。と同時に、この神代時代ともいうべき頃から色々の困難に打勝って、その基礎を築かれた幹部の人々の中に、勇退される方々も出て参りました。武器職種では、最古参の谷本先生が昭和34年5月に勇退されました。私が武器学校の副校長から陸幕武器課長として、東京に帰って参りましたのが、昭和36年8月と記憶しております。
 着任後しばらくして、36年の暮か?37年の春になってからか? 谷本先生と原田先生がご一緒だったか、或は別々だったか、これも、はっきり覚えておりませんが、陸幕に来られ、武器職種のOB会を作ったらどうか、とのお話があったと思います。OB会と云うことは、OBが主体で、現役は段取りのお世話をして、共々お相伴にあづかり、先輩のご意見など拝聴しながら親睦をはかろという事なので、その線でとりあえず、陵墓武器課が世話役となり、計画を進めたわけです。武器課の総括副班長だつた青野さんと相談し、そのご協力を得て、会を作り始めました。武器課の班長会議にもかけ、先づ会の名称を何とするかから始めましたが私は『王土会』としたらと提案しました。私は前述のように、米軍組織に於ける武器部隊、武器職種のあり方に少からず尊敬的な観念を持っており、その名が、『オードナンス』であることにも惚れこんで居りました。それにもう一つ、かって私が武器学校の副校長をして居りましたとき、或る動機があって同好の人々と共に陶芸を始めようとして、浦部校長の賛同を得て、校内湖畔に近い所に窯を築いて焼き物を作ったとき、それを名付けて『王土焼』として、好評を博したことも念頭にあって、この会の名を『王土会』と提案する気になったのです。ともかく、班長会議でも皆さんの賛同を得て王土会と決めました。私は今でもいい名前だと自負して居ります。自衛隊の武器関係部隊、機関には前に申したように武器職種のみならず各職種の人々、更には部隊職員の方々も大勢居られるのです。武器科0B会という限定した名よりは遥かに広開的だと思いました。王土会とは、オードナンスの発音を真似たものでありますが、字も美しく高尚です。今流行の片假名を使うのはいやだったのです。
 会名が決り会長は? という段になり、0Bが主体で現役はお世話役と云う事になると、当時としては、神代時代から武器科の為に尽されて勇退された点から、至極当然に谷本先生にお願いすることとなり、ご快諾を得ました。そこで催しの第1回会合は、私が幹事役を勤めて深大寺の門前そぱ屋で開きました。私が居を府中にかまえた頃、谷本先生の義兄に当られる方が、府中の農業学校の校長をして居られ、その演習圃場が神代植物園の近くにあり、圃場内の養魚池で養殖した川鱒を門前そば屋が払下げを受けて、鱒料理を客に供していたと知り、先生のご紹介を受けてここを会場とした次第です。国宝級の名殺の山門を前にした幽邃(ユウスイ)な会場での総会は、誠に王土会の名にふさわしく盛会でした。写真を撮る為に、腕自慢の会員がフラッシュされたようにも思われましたが、記念撮影の段取りを怠ったのは、幹事の手落ちと悔やんでおります。
先般、朝枝さんから何か当時の資料はないかと尋ねられ、物置の中迄ひっくり返して探しましたが見付からず、残念に思っております。今年は、この王土会も30周年を迎えることになります。昔からご一緒に過して来た人々と会って、当時を偲ぶことは何と幸せなことでしょう。人生の幸福は楽しい思い出を沢山持てることに在ると誰かが言いました。宜なるかな。
  後 記
オードナンス(Ordnance)と言う語を英国のオックスフォード辞典及び米国のメリアン、ウェブスター辞典を引いて見ると
(1)集合的に、砲、大砲、大砲、特に正規軍の採用した大砲
(2)器材、弾薬、車両、修理要員も含めた器材
(3)政府の軍需品
と云った訳が見えます。
もう一つ、米軍の武器科職種として軍服の襟につけているバッジ印は、フレーミングポムとも云い、火の着いた弾のことですが、この印は、我が帝国陸軍の曽ての造兵廠・火爆薬製造の、火工廠(後に東京第二造兵廠と名称変更)の廠章と全く同一であることです。
いかなる因縁かは研究不十分です。
                  (元陸幕武器課長・武器補給処長)

  
王土会創設30周年に当たって
          青野 櫻一郎
 去る5月頃、朝枝理事から来年の王土会は 創設以来30周年となり、それを記念して、王土会創設当時の事を文字にして全員に配布したいと思っておるので、私に当時の事を書くようにと依頼されました。私は、昭和37年3月から1ヶ年聞、陸幕武器課総括副班長として勤務して居たためでした。私が当時の種田武器課長から『谷本先生から武器科の0B会を作ろうではないかと云うお話があった。OB会の結成は是非必要だと思う。OB会と申しても人員は少ないのだから、現役がお世話をしなけれぱならないであろうと思う。その積りで考えるように』とのご指示を受けたのが、私と王土会との初めてのお付き合いでして、37年の6月から7月頃と記憶しております。7月の異動で、武処から総括班に着任されたばかりの北村清一さん(元武処副処長)と相談しOB会の件を担当して貰う事と致しました。私は37年も昔の事なので、総括班時代のメモを調査したところ、王土会に関するメモも若干ありましたので私はそれ等を織り込みつつ不確実な記憶を辿ることとし、発足に当たっての生みの苦しみ的な事は、北村さんが書かれることと思いますので、その方に任かすことと致します。
 創設の緒準備は何れにしても種田課長や故浦上副課畏から種々ご指導を戴きながら、枠組を作って行ったのは当然の事です。即ち、
一、OB会の目的はどのようにするのか。
二、その目的に沿った会の構成を、どのようにしたらよいのか。会長制を採用するのか
三、会の行事をどのようにするのか。
四、会費の規模及び徴収要領はどうするのか
五、最も重要な会の名称はどのようにするのか。
等諸々の事項を検討しながら、北村さんが会則作成をされておったのが、つい先日のような気が致します。OB会の目的は、会員相互の親睦は勿論、相互発展を図る事は当然ではありますが、会則には明文化はしてありませんけれども、諸先輩及び課長の頭の中には、じ後増加する定年退職者の将来の就職問題解決の主要な手段としたいと云う事が窺えました。その具体例が37年12月5日のメモに在りました。谷本先生から課長不在のため私が電話を受け、課長に報告した旨の記録があります。即ち、先生が統幕議長にお会いになった際、防衛庁の技術顧問等に王土会を利用して戴きたい旨を申し上げたところ、議長はそれは大変結構な事だ、よく考えようと申された。そう云う意味からして、兵器工業会や防衛生産委員会にも王土会の者を入れるべきだと思う。この点よく課長と相談して貰いたいと申されており、先生方や、課長が王土会に大いに期待をされておられたのが判ります。会の構成・行事並びに運営について、先づ思い出される事は会長制を採用し、会長を中心に運営して戴くのがよいと思い、その線に沿った会則にしたのでありますが、数年後王土会会員の中から王土会は、武器科幹部等の退職者の親睦が主なのだから、会長制でなくてもよいのではないか、と云うご意見が出て現行のような常任理事による合議制が採用されることになりました。会則作成の困難性をつくづくと後年感じたものです。
 また会場の選定については、王土会発足以来、総会は主として駐屯地施設以外で実施されており、第1回は、深大寺のそぱ屋で開催ぎれました。この時は谷本先生の義兄の方のお世話どご配慮とにより、府中の農業高校一の演習圃場内の鱒養殖施設(多数のプール)で鱒釣りを楽しんだ後、前述のそば屋で会食をして一時を過ごし、第1回目の王土会を無事終了したのを覚えております。この当時はなにぶん退職者が少なかった為、現役も比較的多数参加したのを記憶しております。
 王土会員が少なかったため、交通が便利で安価で且つ気のきいた場所となると、なかなか無く、その後の会場も、種々の場所で総会が開催されておるのを考えましても、世話役は会場選定には大変苦労されて居られました。
 第2回目の王土会開催場所についても同様で、38年2月8日に次の記録があります。当時十条支処長であった故中西一佐から谷本先生に『3月9日は、十条の記念日なのでその時、王土会の総会を実施してはどうですか』と云う申し入れがあったので、谷本先生は『地理的にはよいが、近く霞ヶ浦のほうでも記念日がある、武器補給処長としては、支処で実施するのであれば、それ以前に本処で実施すぺきではないか、と云われるのではないだろうか』と返事をしておいたが、十条支処の最近の動きを皆に見せると云う意味において、良い考えだとは思う。然し支処内で実施するとなれば駐屯地としての諸規則もあるので、出鱈目は出来ないであろうから、しっかりした議題を設けて開催すべきだと思うと云う先生の伝言を、課長に報告しております。会場の選定は、当初から苦労をしておったのですが、最近は理事の方々のご尽力により東京池袋の東方会館に落ち着いておるのは、大変結構な事と考えております。
 次に会費ですが、これはどうしても必要な事ですけれども、その会が永久に存続し盛大に繁栄してして行くか否かを左右する原因ともなり、その徴収要領によっては諸経費を要することにもなるので、現在のような姿に落ち着いたと思います。
 最後に会の名称です。種田課長の命名でして、課長にはOB会創設の話が出た当時から何か心当たりがあったような事を云われておられました。しかし正式に名称が内定した時期は何時であったであろうかと調べてみました。37年11月10日の班長会議のメモの末尾にOB会を11月17日実施する旨が記録されておりますが、この時期には課長以下私共はOB会の名称を王土会としたいと殆ど決めて居ったにも拘わらず、何故王土会と記入せずに0B会と記入され、11月17日には王土会(0B会)深大寺で14時〜18時に実施する旨、メモされてあるのを見ますと、次のように推測されます。当時課長・副課長はOB会の名称や会則等について事前に、谷本先生は勿論、陸幕第5部長の池上先生とか故原田先生等の諸先輩の先生方にご了解を得るのに、若干時間を要して居られたのを記憶しておりますので、多分11月10日から17日の間に王土会と云う会名が正式に内定し、第1回の総会で決定したものと考えられます。
    この推論は私の間違いでしょうか。
 以上、王土会創設当時の経緯や、裏話的な事柄を、不確実な記憶をもとに書いてきましたので、多分に事実と相違しておる点があるとは存じますが、その節はご叱正、ご指摘を賜りたく重ねてお願い申し上げて筆を置きます。
                      (元武器補給処補給管理部長)

    
草創期、王土会の回想
                北村清一
 はじめに。
 私は昭和37年8月から42年8月まで、陸幕武器課総括班に勤務し、王土会の創設時に同会の仕事の手伝いをした関係で、王土会朝枝理事より当時のことを書けとのことでしたが30年以前のことであり、老化した記憶を辿りながら思いつくままに筆を執った次第で、思い違いがあるかもしれないが、了解をいただきたい。
1、王土会会員の構成と資格について
 王土会は、武器科幹部の退職者を対象とし てこれを正会員とした。
 現役幹部を特別会員としたのは、OBと現役との親睦目的とはしたが、会発足当時、在京のOBが少なく会の事務は不文律ながらすべて陸幕武器課総括班で処理することとしたため、当時自衛隊に対する風当たりがきびしく、世評を考慮し現役の武器科幹部を特別会員として対応したと記憶している。現在ではとても考え及ばぬことである。
 その後、事務官及び他職種で現役時代に武器関係業務に勤務した者、又は武器関係企業に就職した者等の退職幹部等の入会希望があったので、正会員とした。
2、会の運営について 会発足当初は、会長制で運営したが、昭和39年度第3回総会では参加者も多くその節、会長職をやめて幹事の合議による運営の、規則改正の強力な動議があり、現在のような幹事制となった。
 当時、私は会則作成、総会の開催、会計事務等、会運営に関する計画段階から実施までを担当したが、王土会の各幹部の意見を聞くことが大変なうえ、OBから突発的な意見や動議がある等、最終決定を得るまでの調整にいまでは想像も出来ないほど日数を要し、本当に苦慮したものです。よく予備隊(自衛隊の前身)草創期の越中島時代を予備隊の神代時代と言われたが、正に王土会の神代時代と言うべきで、大方の想像が得られると思う。
 かかる長のない組織で、事務手伝いをする者の苦労は、経験のない者には想像すら出来ないと思う。その精神的ストレスから解放され、容易に事務処理が出来るようにするために、いつか、長制度の復活を願いつつも、私の陸幕勤務終了の42年迄には遂に会則変更を言い出せる環境ではなくそのままとなった。
 現在も会則の基本はそのまま踏襲されているが、王土会の将来を思う時、責任ある長制度を採用することの必要性は、いまでも痛感する。
3、総会の会場の選定について
 総会の会場は、OBの方がせめて年に一度は、陸幕の様子をみたり、武器課勤務者との話し合う機会を作ることをねらって、陸幕に立ち寄ってから会場に行くことが出来るよう、陸幕の近傍を選定した。即ち、第一回は王土会開発式とも言うべきで、深大寺で実施されたが、昭和38年第2回大会は、陸幕の裏側にある赤坂の桧苑という料亭の広い日本間で二ノ繕付で開催した。正会員は、谷本・佐藤の両先輩で、欠席者の補充に苦慮したこと。当時として千円会費は高額で、一人の欠席は大変だったこと。他の戦友会?に参加すべき人が王土会に出席し、開会の挨拶の途中ではじめて間違いを気付き、あわてて退席したことなど・・・・・・・・なつかしく思い出される。
昭和39年度第3回大会と翌第4回大会は、千駄ヶ谷駅近くのマンション1階の洋食店で、テーブルに腰をかけて、1人づつの配膳で実施したが、当日も、不参加者が多く、頭をいためたものである。昭和41年第5回大会は、参加申込みが多く、広い会場が必要であったので、当時赤字で利用促進していた市ヶ谷会館を活用した。はじめて立食としたおかげで、当日は出席者の増減も、会計も懸念することなく歓談出来たこと、又参加人員の予測も数回の経験で的中したこともあり、漸く翌年度への繰越金が出来たことを思い出す。又私の陸幕在勤中の大会では、陸幕武器課の班長以上と東部方面の希望者の参加のみで、現在のような武処、武校、抜本、陸幕他課等の幹部の参加はなかったと記憶している。
4、大会の開催について
 王土会は総会を無難に開催することが唯一最大行事であると言っても過言でない。第5回大会までは、その都度、会長、幹部等の意見を伺って決定したが、前述のように日程の選定には、甲論乙駆でなかなか決まらず、その為に、会場の決定、開会通知の発送等で苦労したので、私としては出来得れぱ、大会日は通年で、あらかじめ概定することをのぞんでいた。
 昭和41年度第五回大会は、市ヶ谷会館で開催したが、当時偶々2月11日が建国記念日(旧紀元節)に制定されたので、この機会をとらえ、次の理由で大会開催日を毎年2月11日に近い前の適当な日にすることを提案し、了解を得てスムースに開催することができた。
この2月上旬の厳寒期は、当時のOBも若くて良かったと思っていたが、年を経て現在70余の今の身では果たしてどうだったかと考えさせられる今日この頃である。
 大会開催日設定の理由
(1)大会運営の計画及び会員各人の年間行動予定をたて易い。
(2)2月は私的、公的に最も余裕のある月である。
(3)将来参加人員の増加と会費の高額化傾向を考慮し、飲食業界で最も閑散な2月は会場の選択が容易である。
(4)遠隔地(高知、名古屋等)高工校に勤務している0Bの学生就職運動のため来京、来隊の時期に合致し大会参加が容易である。
  おわりに。
 王土会創設以来30年、感無量である。
益々の隆盛と発展並びに会員各位のご健勝を祈りつつ筆を擱く。
                (元武器補給処副処長)

 王土会の歩み
回数 実施年月日 場所 参加人員
1 37.11.17 深大寺(門前そば) 51
2 38.11.29 赤坂(檜苑) 37
3 39.11.12 千駄ヶ谷マンション 51
4 40.11.26 同上 54
5 42. 2.10 市ヶ谷会館 61
6 43. 2. 9 同上 67
7 44. 2.10 同上 61
8 45. 2.10 桧町クラブ 104
9 46. 2.10 同上 109
10 47. 2.10 同上 130
11 48. 2 .9 同上 118
12 49. 2. 9 同上 130
13 50. 2.10 同上 152
14 51. 2.10 健保会館 160
15 52. 2.10 ホテルニュージャパン 140
16 53. 2.10 同上 161
17 54. 2. 9 同上 162
18 55. 2. 8 同上 168
19 56. 2.10 東方会館 165
20 57. 2.10 同上 190
21 58. 2.15 同上 193
22 59. 2.10 同上 180
23 60. 2. 8 同上 193
24 61. 2.15 同上 196
25 62. 2. 6 同上 188
26 63. 2. 5 同上 208
27 平1. 2.14 同上 205
28 2. 2. 9 同上 206
29 3. 2. 8 同上 216

    武器学校見学等(30周年記念行事)について

 30周年記念行事の一環として桜花の4月武器学校観桜会時に予科練ゆかりの地、記念の遺稿や遣品の数々の見聞、武器学校の施設及び新装備品等の見学を計画しました。
王土会、会員の皆様には、在職期間の長短はございますが、かつてともに学んだ武校の今日の勇姿、思い出の各施設、新装備品等展示の見学等を武校のご厚意により行います。
 尚、当日は武校OB会、武校現役の人々と観桜会の場を通じ歓談出来ますので、会員皆様多数の参加をお待ちしております。

日 時 平成4年3月下旬又は4月上旬吉日
     1000〜1530(小雨決行)
場 所  武器学校
      茨城県稲敷郡阿見町青宿121〜1
会 費  昼食代として現地にて徴収いたします。
      尚、遠方から参加される方の為宿泊施設として、土浦京成ホテルを予定しておりますので、別途ご案内(返信葉書)連絡事項欄に「宿泊希望・何名」と明記して下さい。

  編集後記
 会の歴史を残す意味からも意義のある内容ということで、種田先生を初め青野先生、北村先生から寄稿をいただき会の創設にかかわる想い出の記事特集としました。
 編集に当り、十条の現役の皆様から多大の支援を受けたことを特記し感謝申し上げます。











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